4月のみ言葉 と 意向 宗教科 納富 幸夫
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書 第15章16節)という4月のみ言葉は、 神と人間との関係性について以前2・3年生の授業でも取り上げた「上下相互内在関係」以上に、わたしの生き方の基礎となり、すべての価値観の根拠ともなる、とても重大なイエス様のお言葉であると思われます。「弟子達がイエス様を選んだのではなく、わたしが弟子を選んだのである」というこのイエス様のみ言葉は、現在のわたしや家族が、偶然にこの福岡海星女子学院と神を選んだのではなく、神自らが恵みと愛ゆえに、わたしとわたしの家族に近づき、わたしを選び、ご自身を与えて下さったと言っているのです。ですから皆さん、今日の数分間、真剣に自分の心を開いて、静けさの中で、今までの自分の人生を振り返ってみてください。しかし同時に、一番の心配事がやってくるかもしれません。それはわたしがなぜ神に選ばれ、何のために、何に対して神に召されたのかという不安だと思います。
その昔、ジャンヌ・ダルクという一人の乙女が「神よ、わたしの命はあと一年しかありません。出来る限り、わたしをお使いください」と真剣に祈ったとありました。それは「神が人を選ばれるのは、その人を用いるためである。」との聖書学者ウイリャム・バークレー博士の言葉にもあるように、「神に選ばれ、神の道を歩む者は、いかに困難であろうとも、その過程においても、執着においても、喜びの道であり、正しいことをするところ、喜びは常にある。」と言われているからです。
ですからその一つは、当然のことながら、わたしは神から、限りない喜びへと選ばれているのは確かなことでしょう。イエス様が示された神への道は、いかに困難であろうとも、その過程においても執着においても、結局は喜びの道なのです。正しいことをするところ、喜びは常にあると言われています。今まで怠けていた勉強や奉仕活動に決心して立ち向かい、それを成し遂げた時、自分の心に喜びが湧き起こってきたことがないでしょうか。ですからイエス様の教えの道を歩む人は、喜びの人なのです。陰気なキリスト者は本物ではありません。確かにキリスト者も罪人です。しかし歴史を通じても、贖われた罪人なのです。そんなわたしが、イエス様と共に自分の人生を辿って歩む時に、はじめてキリスト者の幸せと喜びが心の中に生まれるとヨハネは力説しています。
二つ目は、わたしは「愛」へと選ばれています。わたしたちは互いに愛し合うために世に遣わされているにも関わらず、互いに競い合い、口論し合い、反目しあうために遣わされているかのように生きている傾向があります。あらゆる差別や紛争、戦争が長引いているのは周知の通りです(昨年、授業の中で、『き・く・あ」の勧め』を取り上げたことを思い出してみてください)。しかもイエス様は、「この世で派遣されているのは、人を愛するとはどんなことなのかを、自分の生活によって示す人達にある」として、「わたしが愛したように、あなたたちがたがいに愛し合うこと、これがわたしの掟である。」と強く宣言されています。わたしたちはしばしば、何か大変なことを要求する人に向かって、「何で、何の権利があってそんな要求をするのか」と反論することがあります。もしイエス様に「何の権利があって、わたしが互いに愛し合うように要求するのですか」と問いかけるなら、イエス様はきっと「友のために命を捨てるに勝る大きな愛を示すことはだれにも出来ない。しかし、わたしは友のために命を捨てた。」と平然として答えられるに違いありません。イエス様は常にまずご自身が成就されたことを私にも要求されているのです。
三つ目は、イエス様はご自分の友人としてわたしをお呼びになったということです。この言葉を聞いた当時の人達の驚きは、ことばに言い尽くせないほどのものであったと言われています。 さらにイエス様は、ご自分の協力者として選ばれました。イエス様はわたしが社会から退いてひっそりと 生かすために選ばれたのではなく、社会の中でイエス様を証するようにと選ばれています。それは イエス様の言葉で明白です。「わたしはあなたを遣わすために選んだ。」と。まだまだあります。「わたしが世に出て行って、実を結ぶように」、また「神の家族」としても選ばれています。しかも 神の家族の祈りはいつも無条件に叶えられると言うことではなく、力ある祈りは、神を信じ、 神の十全な愛に信頼しなければならない。キリストの名においてなされなければならない。「あなたのみ旨をなしてください」。決して利己的であってはならない。これが真のキリスト者の 日常生活であると、聖ヨハネは今も、福音書の中で私達に強く訴え続けているのです。

採用情報
福岡海星女子学院